4月17日 復活の主日 (復活の聖なる徹夜祭)

参考:【第一朗読】 創世記1:1.26-31a【第二朗読】 創世記22:1-18

第三朗読  出エジプト記 14:15-15:1a
(その日、追い迫るエジプト軍を見て、イスラエルの人々が非常に恐れたとき、)主はモーセに言われた。「なぜ、わたしに向かって叫ぶのか。イスラエルの人々に命じて出発させなさい。杖を高く上げ、手を海に向かって差し伸べて、海を二つに分けなさい。そうすれば、イスラエルの民は海の中の乾いた所を通ることができる。しかし、わたしはエジプト人の心をかたくなにするから、彼らはお前たちの後を追って来る。そのとき、わたしはファラオとその全軍、戦車と騎兵を破って栄光を現す。わたしがファラオとその戦車、騎兵を破って栄光を現すとき、エジプト人は、わたしが主であることを知るようになる。」
イスラエルの部隊に先立って進んでいた神の御使いは、移動して彼らの後ろを行き、彼らの前にあった雲の柱も移動して後ろに立ち、エジプトの陣とイスラエルの陣との間に入った。真っ黒な雲が立ちこめ、光が闇夜を貫いた。両軍は、一晩中、互いに近づくことはなかった。モーセが手を海に向かって差し伸べると、主は夜もすがら激しい東風をもって海を押し返されたので、海は乾いた地に変わり、水は分かれた。イスラエルの人々は海の中の乾いた所を進んで行き、水は彼らの右と左に壁のようになった。エジプト軍は彼らを追い、ファラオの馬、戦車、騎兵がことごとく彼らに従って海の中に入って来た。朝の見張りのころ、主は火と雲の柱からエジプト軍を見下ろし、エジプト軍をかき乱された。戦車の車輪をはずし、進みにくくされた。エジプト人は言った。「イスラエルの前から退却しよう。主が彼らのためにエジプトと戦っておられる。」
主はモーセに言われた。「海に向かって手を差し伸べなさい。水がエジプト軍の上に、戦車、騎兵の上に流れ返るであろう。」モーセが手を海に向かって差し伸べると、夜が明ける前に海は元の場所へ流れ返った。エジプト軍は水の流れに逆らって逃げたが、主は彼らを海の中に投げ込まれた。水は元に戻り、戦車と騎兵、彼らの後を追って海に入ったファラオの全軍を覆い、一人も残らなかった。イスラエルの人々は海の中の乾いた所を進んだが、そのとき、水は彼らの右と左に壁となった。主はこうして、その日、イスラエルをエジプト人の手から救われた。イスラエルはエジプト人が海辺で死んでいるのを見た。イスラエルは、主がエジプト人に行われた大いなる御業を見た。民は主を畏れ、主とその僕モーセを信じた。
モーセとイスラエルの民は主を賛美してこの歌をうたった。

参考:【第四朗読】イザヤ54:5-14【第五朗読】イザヤ55:1-11【第六朗読】バルク3:9-15,32~4:4【第七朗読】エゼキエル36:16-17a,18-28

使徒書の朗読 ローマの信徒への手紙 6:3-11
(皆さん、)あなたがたは知らないのですか。キリスト・イエスに結ばれるために洗礼を受けたわたしたちが皆、またその死にあずかるために洗礼を受けたことを。わたしたちは洗礼によってキリストと共に葬られ、その死にあずかるものとなりました。それは、キリストが御父の栄光によって死者の中から復活させられたように、わたしたちも新しい命に生きるためなのです。もし、わたしたちがキリストと一体になってその死の姿にあやかるならば、その復活の姿にもあやかれるでしょう。わたしたちの古い自分がキリストと共に十字架につけられたのは、罪に支配された体が滅ぼされ、もはや罪の奴隷にならないためであると知っています。死んだ者は、罪から解放されています。わたしたちは、キリストと共に死んだのなら、キリストと共に生きることにもなると信じます。そして、死者の中から復活させられたキリストはもはや死ぬことがない、と知っています。死は、もはやキリストを支配しません。キリストが死なれたのは、ただ一度罪に対して死なれたのであり、生きておられるのは、神に対して生きておられるのです。このように、あなたがたも自分は罪に対して死んでいるが、キリスト・イエスに結ばれて、神に対して生きているのだと考えなさい。

福音朗読  ルカによる福音書 24:1-12
週の初めの日の明け方早く、(婦人たちは、)準備しておいた香料を持って墓に行った。見ると、石が墓のわきに転がしてあり、中に入っても、主イエスの遺体が見当たらなかった。そのため途方に暮れていると、輝く衣を着た二人の人がそばに現れた。婦人たちが恐れて地に顔を伏せると、二人は言った。「なぜ、生きておられる方を死者の中に捜すのか。あの方は、ここにはおられない。復活なさったのだ。まだガリラヤにおられたころ、お話しになったことを思い出しなさい。人の子は必ず、罪人の手に渡され、十字架につけられ、三日目に復活することになっている、と言われたではないか。」そこで、婦人たちはイエスの言葉を思い出した。そして、墓から帰って、十一人とほかの人皆に一部始終を知らせた。それは、マグダラのマリア、ヨハナ、ヤコブの母マリア、そして一緒にいた他の婦人たちであった。婦人たちはこれらのことを使徒たちに話したが、使徒たちは、この話がたわ言のように思われたので、婦人たちを信じなかった。しかし、ペトロは立ち上がって墓へ走り、身をかがめて中をのぞくと、亜麻布しかなかったので、この出来事に驚きながら家に帰った。

祈りのヒント
「たわ言」という言葉が福音朗読箇所には出てきます。使徒たちは婦人たちの必死の訴えを聞き流すかのように、真摯に向き合うことがありませんでした。ペトロだけが一応は使徒たちの責任者として墓を見にいきましたが、ほかの使徒たちは懐疑的でした。使徒たちは婦人たちの言葉を「たわ言」として軽くとらえました。

それほどまでに、使徒たちは疑心暗鬼に陥っていました。もう何も信用することができないという状況にまで追い詰められていたからでしょう。つまり、使徒たちは恩師のイエス・キリストの死によって、すべてを失い、もはや頼るべき相手がいないままで放置されていました。まるで見捨てられたかのような孤独感にさいなまれて、自暴自棄になっていました。もはや他者を信用する気が一切ない、諦めの状態の使徒たちにとって、婦人たちの報告はどうでもよいことだったのでしょう。

この復活徹夜の祝い日の福音朗読箇所は、まさに人間が復活の出来事に直面したときの自分たちの都合を見事に描いています。つまり、人間というものは自己中心的にしか物事を解釈することができないという限界と弱さをかかえて生きているのです。復活という出来事は、イエス・キリストがいまも生きつづけて私たちのそばにともにいる、という真実なのではありますが、その真実をすぐに理解することは人間には難しいのです。

復活を受け容れるというときに、時間をかけて、ゆっくりと理解する道筋が、私たちには必要なのです。使徒たちは様々な人びとの報告を聴きながら、徐々に心を開いて他者の言葉を受け容れることに目覚めていったのです。つまり、人間にとっては真実を理解するためには非常に時間のかかる道筋が必要になるので、最初は疑ってしまったり、相手をこばかにしたようなひねくれた態度で取り合うことになっているわけです。

イエス・キリストは「死を乗り越えて生きつづける力強さ」と、相手を決して独りに捨て置かないという「ともに歩む」姿勢を確かに実現してくれます。それが復活の出来事です。使徒たちはイエス・キリストの「あらゆる困難をはねのけるだけの力強さ」と「ともに歩む慈愛深さ」を、すっかり忘れていました。三年間かけて、イエス・キリストといっしょに過ごした使徒たちが当初感じていたイエス・キリストの「力強さ」と「慈愛深さ」を、使徒たちはキリストの死後のひとときにおいては決して想い出すことなく、勝手に自分の都合で物事をゆがめて落胆していたのです。

使徒たちにとっても、私たちにとっても、いまこそ、頑固な自分勝手さをゆっくりとほぐすことが、復活を理解するための第一歩となるのでしょう。

(日曜日のみことば 2022-04-17)

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